決定的ではな

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決定的ではな

等――きりがないから、一応これくらいにしておくが、日常の市民生活ではあまり使用されない語を愛用する傾向が、彼にはかなり顕著に認められるといってよさそうだ。例えば、penulti-mate(「語尾(終わり)から二番目の」)という単語は稀語に近いとdermes 價錢いってもよいと思うが、こういう単語を用いているのもその一例である。
 本書に収められた「闇に囁くもの」も、この彼の物語圏に属するものの一つであるが、その作風は「ダンウィッチの怪」とはかなりちがったものである。怪異をあつかうという点では同じであっても、問題の怪物が、その正体をいつ現わすか、いつ現わすかというサスペンスにひかれたあげく、その期待感の頂点で読者の目の前に物凄い姿を現わす、この行きかたの代表が「ダンウィッチの怪」であるとすれば、その逆の行きかたの一例がこの「闇に囁くもの」であるといってよかろう。なるほど理詰めな読者ならば、エイクリーはしょせん機械装置の蝋人形であって、ノイズがそれをあやつっていた、とお考えになるであろうし、また逆に、エイクリーとノイズとは同一人物であるという説も可能であろうし、さらに、エイクリーとノイズとは別人であって、エイクリーはやはり行方不明となっているという素朴な考えが、いずれも唯一無二の決定的な論となりうるわけではなく、それらのいずれも可能であると同時にいという、いわばもやもやとした怪しげな雰囲気のうちに、実体不在の疑惑を溶解してしまう行きかたの一つの代表がこの「闇に囁くもの」である。
 だからこの作品について、実体が不明理大腾讯だからつまらないというのは、どだい野暮《やぼ》な話であって、むしろ、実体を最後まで隠しておきながら、どこまで怪異なる雰囲気を伝えうるか、その可能性を探ろうとするところに彼の野心があったと見るのが至当ではあるまいか。その野心を成立させるには、何よりもまず独特な文章の必要なことは当然で、それにふさわしいだけの個性的な文体が彼には備わっていた。ただし、それが、どの作品でも完璧かどうかという点では、いくぶん問題のないことはない。わたしの読んだかぎりでは、その行き届いた文章の完璧性という点ではポオの域に遙かにおよばないが、物語圏を組織的に創造したという点ではラヴクラフトにも独自性を認めてやらなばなるまい。また、「闇に囁くもの」にはスペース・ドラマを先《さき》どりしたような要素も認められるから、これを古典的なSFの一つと見る考えかたも可能であろう。
「インスマウスの影」は、実体の出現に関していえば、いまのべた二作のほぼ中間に位《くらい》する作品であって、幻想的でありながら、読後の印象には不思議に生々《なまなま》しい現実感があり、その魚のような顔をした怪しい生きものの影がいつまでも心に残る。
「死体安置所にて」は、いわば当世はやりのブラック・ユーモアのはしりのような話であり、作者の話術の巧みな組立てぶりが端的に現われた作品である。
「壁のなかの鼠」は、視覚と聴覚との双方に訴えかける怪奇な味わいを、綿密に計算してできあがったという趣《おもむ》きのある話であり、作者の文章のリズムに乗りきれない読者にはつまらない作品と思われようが、乗りきれた読者には、以後ラヴクラフトの作品のリズムは

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