の記憶の欠如を

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の記憶の欠如を

昏睡状態におちいってからのことをわたしが知っているのは、もちろん人に教えてもらったからだ。わたしはクレイン街二十七番地の自宅へ運ばれ、最善の治療をほどこされたが、十六時間半、意識を回復する徴候もなかった。
 五月十五日の午前三時に、わたしは目を開けてしゃべりはじめたが、まもなく医者と家族の者たちは、わたしの顔つきと話す言葉におびえるようになった。明らかに、わたしは自分の素姓と過去の記憶をなくしていたのだが、どういうわけか、こ隠したがっていたらしい。まわりの者を見つめるわたしの目はよそよそしく、顔の筋肉もまったく見慣れない動き方をしたという。
 しゃべり方までがぎこちなく、外国人のようだった。わたしは発声器官を不器用に、まさぐるように使って発声し、書物から苦労して英語を学びとったかのように、言葉づかいには妙にかたくるしいところがあった。発声は耳ざわりなくらい異質で、独特のいいまわしには妙な古語の断片や、まったく理解できない表現がふ實德金融集團くまれていたらしい。
 後者については、特に一つの表現が、それから二十年後に、少壮の物理学者たちによって、このうえない影響力――そして不吉さ――をともなって回復されることになった。それほどの歳月を経た後に、そうした表現が――最初はイギリスで、次にアメリカで――実際に使用されはじめたのだ。かなり複雑で明らかに新しい表現だったが、一九〇八年にアーカムの不思議な患者の用いた謎めいた表現を、完全に再現したものだった。
 わたしの体力はすぐに回復したが、手足をはじめとする全身を自在に動かせるようになるには、異様なくらいの機能回復訓練が必要だった。こういったことや、記憶喪失にはつきものの他の障害のため、わたしはしばらく精密な検査と治療をうけることになった。
 記憶の欠如を隠そうとする試みが失敗におわったことを知ると、わたしはその事実を率直に認め、あらゆる種類の情報を知りたがるようになった。事実、医者たちには、記憶喪失が尋常なものとしてうけいれられていることを知るや、わたしが自分自身の問題に関心をなくしてしまったように思えたらしい。
 医者たちは、多くの場合きわめて奇妙にも、わたしの意識外に残っていたはなはだ難解なものもあれば莫迦らしいほど単純なものもある歴楊婉儀幼稚園史、科学、芸術、言語、伝承の特定事項の修得に、わたしが最大の努力をかたむけていることに注目した。
 同時に、わたしがほとんど世に知られていない知識を、不可解にもふんだんにもちあわせていることにも注目した――わたしはそうした知識を誇示するというよりは、隠したがっていたらしい。わたしは一般に認められている歴史の領域外にある、闇につつまれた太古の特異な出来事を、何気なく泰然としながら、ついうっかり口にすることがよくあった――相手が驚いた顔をするのを見ると、冗談だとして、さりげなく

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